特性は強みになる 純粋性は育つ

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こころ

今でこそ多様性だ、ダイバーシティだ、なんだ。と、マイノリティーが一種のアイデンティティとして好意的とられる場面も増えましたが、まだまだ精神障碍や発達障碍への社会的理解度は低いといえるでしょう。

理解度というよりは視野が狭いという印象の方がしっくりくるかもしれません。知識として会得していても、現実的に前向きにどう関わっていけるか?という点において意識がされていないように思います。

発達障碍やグレーゾーンへの理解と相互作用

グレーゾーンも含めた特性、いわゆる発達障碍を持つ人々は時に、生き辛さと同じくらい可能性を秘めている。と私は自身の交友と経験から確信しています。これは誇張ではなく本当にそうだといえます。

生きる辛さを持つ人との縁は、どうしてか昔から深かったように今振り返ると思います。自分自身も程度に差はあれど、似たような苦しさを抱えていた為に、お互いに共感を無意識に求めていたのかもしれない。とも。

なぜ無意識かといえば、主に私が身体的精神的に問題を抱えた人々と密な交流を為していたのが小学生から中学生にかけてだからです。
ひょっとしたら、私の中にはどこかしら自意識もあったかもしれませんが、彼ら彼女らは発達障碍にはじまり、重度の精神遅滞(知的障害)やダウン症などを個性として持つ子たちだったので、何らかの社会的な意図をもって交友関係を考えられる可能性は非常に低いといえるでしょう。

学校という組織に組み込まれた中で、時に理不尽にも思えるような彼らの言動や行動は、校則や家庭の規定に沿って「良い子」に過ごしている健常な子供たちから時にひどく反感を買い、差別へと発展してしまう事も少なくありません。

彼らの個性を正しく知識として教師や親が子供に示す事が出来れば、そういった悲しい歪みは出来にくくなり、他者の個性にも自分自身の生き方にも寛容になれる。
何事もスタートが大事だというなら、子供に言っても仕方ない。と説明を避けて回るのではなく、学校や大人はその役割をこういった点で果たす必要があると私は長年思っています。

ついては、自身が成人して暫く、このように人間の生き方や心の有り様に、それまで積み重ねた別の経験や知識が役立たない領域だとしても、敢えて深く関わっていく生き方を選んだのはユング派によくある共時性をにわかに感じたりもします。(あまりそのあたりを掘り下げてはスピリチュアルに寄るので、奇遇だな。ぐらいの感覚ですが)

そう思うくらいに、幼い頃に出会った彼らは私の中でとても大切な記憶であり、まさに心の中の友といえます。

特性は弱点でもあり才能

彼らは各々特性を持っていて、そもそも自己評価自尊心が低かった私は、彼らの短所よりも特性により特化している長所に目が向きました。時には劣等感や己のままならなさから、彼らを羨んだ事さえも記憶に残っています。

ある子は、全くじっと座ったり話を聞いたり出来ない(多動性症候群)代わりに身体が非常に柔らかく、手足が長いこともあってか運動能力に一般の子より秀でていました。

ところが、その子は特性持ちという理由で、運動会などの徒競走では学年でもビリっけつである私などと組まれることがほとんど。私は一寸の迷いもなく俊足で駆け抜けていく彼女の背中を何度も眩しく見ました。

ちなみに彼女は一時期、長靴が大変にお気に入りでそれを履いて走っていたこともありましたが、私は一度も彼女の前を駆けた覚えがありません。

またある子は、とてつもなくマイペースでのんびりしているので、周囲とテンポが全く合わない代わりに、何かに腹を立てたりする事がなくいつも穏やかでニコニコしてる子でした。

ところが、激しい運動が出来ない体質である為、身体が大きく動きもゆったり、軽度ながらチック症状も見られ、一般生徒から心無い言葉で見目を揶揄われることが多かったです。彼は怒りは現しませんでしたが、その大きな手でよく目を擦って泣いていました。私は彼が優しいのを知っていたので、それを見ては幼いながらに心が痛みました。彼がほかの子に悪意を持って何かしているようなことは全くなかったので。

特性がクリエイティブに活きた子も居ました。重度の食品アレルギーを抱え、衝動が抑えられず落ち着きがなく、学校では教師生徒ともどもから顰蹙をかっている子で、行く当てがなく我が家で時折預かっていた馴染みの子です。が、なんと、好きな事に対する集中力とこだわりたるや凄まじく、ゲームのプログラミングを独学でやってのけてみせました。

あの有名なポケモンのゲームの海賊版を自分で作ってみた。とDSを持って嬉しそうに見せに来た時は本当に驚きました。もの凄く称えたのち著作権についてはよくよく言って聞かせたので、きっと賢いあの子はそれも分かってくれたはずです。

ちなみに、大体の人が名前くらいは知っているような有名な偉人は発達障碍持ちが多かった。とされています。例えば、発明王のエジソンや相対性理論のアインシュタイン、レオナルド・ダヴィンチもそうだったといわれています。

確かに、偉人の多くは残した功績と同じくらいインパクトや面白みのある来歴や人物像が現代まで残っています。かといって、無責任に誰もがそうなれるとは言えません。が、特性を活かした前例として、可能性を見出すのには役立つでしょう。

人との関わりで純粋性は芽生え育つ

カウンセラーにとって純粋性が重要である。とは、ロジャーズの来談者中心療法を学んだ方には馴染みの文句かと思います。この純粋性が非常に難しい。どうしてもクライエントを患者(問題のある人)と、はなから見てしまう。とは、よくある事だといわれます。

カウンセリング上の純粋性について考える時、私は上述してきた特性と共に在る彼、彼女らと出会った時、過ごした日々を思い出します。勿論、良いこと悪いこと色々ありましたが、それはいつも私にとって新鮮な経験で、生きていく中で彼らとではなくては得られなかった、かけがえのない燦きのように当時から感じていました。

私は一般クラスに席が一応あったので、そちらにも友人がいて、その「一般的な」子たちに当時よくこう言われました。
「どうして〇〇組の子なんかと遊ぶの?」

その時の私は明確な答えをもっともな言葉として持っていなかったので、そう言われると言い返せず、ただ拗ねてムッとするしかありませんでした。特性があったとして、自分と交流を重ねている彼らは友であり、それを同じく友であるその子達に理解されず、蔑ろに言われるのがただ腹ただしかったのです。

ありのままの心で相談者に寄り添うのが指標であるカウンセラーでも、レッテル貼りやラベリングをしてしまう事はあるのですから、専門的な知識や何かしらの興味がなければ、誰が正解と決めたわけでもない「世間的な」分類や物差しを基準にするしかないことでしょう。

それが絶対に悪い、間違いである。とまでは私にはいうことが出来ません。ただ、一度でも良いので世間や自身の価値観、ものの見方を疑ってみてほしいのです。

普通とはなんなのか。普通じゃないのはどうしてか。それに善悪があって、簡単にどちらか決めてしまえるものなのか。

大学の頃お世話になった哲学の教授から言われた言葉で、ずっと頭に残っているものがあります。ある時期はその意味をストイックに捉えすぎて呪詛のようにも思っていましたが、ここでは厳しい言葉としてではなく、人が生きる理想像を指すものとして記しておきます。※理想はあるに越したことはありませんが、絶対そうでなくてはならない。というものではありません。

人は人である限り考える事を放棄できない。思考を停止した時に、人は人でなくなる。

少し話がズレましたね。強引ですがまとめに入ります。笑

縁というものは、現象的に説明し難いですが不思議な力があると感じます。これは物心つく頃には漠然と私の中にあった感覚です。

だから、どんな人であっても、過ごす時が例え一時でも、自分と関わった人はなるべく大切にしたい。きっと、それはどこかで可能性や良い事に繋がって巡っていくから。
今なら、この思いこそを私自身の純粋性と真っ直ぐ前を向いて言えるような気がします。そうさせてくれたのは他でもない障碍や生きにくさを抱えながら生きている彼らと過ごした時があったからだと疑いません。

ですから、もし、今お子さんや親御さん、友人や恋人の特性による問題で辛い思いをしている場合は、余裕があればで構いませんから少し普段と違う考え方をしてみてください。

違う考え方といわれても…。と思う場合は、いつも思っている事と対極になる気持ちや物事を書き出したり、思い浮かべたりしてみるのから始めるのはどうでしょうか?

少しでも「いつもと別の考えの方が良いな…」と思った場合は、その考えを優先的に出来るようになるには、どうすると良いか?何が出来そうか?という事も考えてみると、段々頭の中や気持ち、問題そのものが整理出来てきます。

もちろん、一人では難しい場合の方が多いので、信頼している方やカウンセラーと一緒に進めていくのもいいでしょう。
私もなるべく早めにそういった悩みなどの相談窓口を設置するつもりなので、その際はご活用いただければ本望です。