人生とは、一生とは

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睡蓮 こころ

輪廻転生 人間道

いずれも仏教に基づくので宗教的な色味が強いが、私がここで述べたい主たる題は宗教についてではない。

端的にいえば、人生の考え方、在り方について私なりにそういうものである可能性はゼロではないだろう。という事をここでは記したいと思う。

一生という言葉の重みは誰しもが知るところだが、一と数えるならば人の生涯とは幾つもあるという考えが何処かしらにないと可笑しくはないだろうか。

そう思うと、現在が何生もあるうちの一生ならば、多少納得のいかない生き方をしたとしても、それこそ死してなお恨めしいほど、後悔など負の感情に囚われる必要はないような気がしてくる。

私は小学生の頃に読んだ手塚治虫の火の鳥にとても感銘を受けた覚えがあるので、その影響も多分にあるとは思う。

同じような顔に同じような性格、そして同じ立場の時もあれば、中身や身の振りは全くの別物になった人物が様々な時代を生きていく。
銘々の生き方をし、死んでいく。皆、それらしい理由でもって永遠の命(火の鳥)を求めて。繰り返し、繰り返し。

その中のどれが正解と不正解ともいえない。
ただ生き物は生まれ文明が進退をし、いずれも形式的な始まりと終わりがあり、その実はウロボロスである。円環の中で移り変わり、ヒトも生き物もそれの変貌に一喜一憂するのだ。
火の鳥の神話性だけは、いつの世も普遍的。

血の繋がりというものがある。それも考えると、今生きている自分自身と全く同じほどの人物が過去にも未来にも居るかもしれない。

だとすると、ただ一生を上手く生きることに病むほど心を砕く必要はあるのだろうか?
何度もチャンスはあるのかもしれない。もちろん、それを理由に今現在頑張っている事、努力していることを無意味と放棄する必要はない。
行いは何らかの変化をその瞬間に刻み何かには作用する。刻まれたものを元に、いつかの己が続きから始める足がけになる可能性はまったくの無ではないといえる。

次の一生に賭けるから。といって、今世を死に急ぐこともない。次の生こそは。と思うなら、今の世は自堕落でも極めて揚々愉しむのが宜しい。

日々過ごす時も気を抜く一日を我々はつくる。「その日」を生涯という単位にすげ替えるだけである。

つまり、一生を懸命に必ず過ごさねばならぬ。という何に義理を立てているかも分からない使命感に苛まれ鬱屈として今世を過ごす義務など、人には本来ないと私は思うのだ。

一生懸命というのは確かに美徳であるが、心身を賭すのは違う。
どうか、日々をどうにか耐えて過ごしている人が、自分自身で己を損なってしまうような悲劇を減らしたい。

そんな風にずっと考えている。何か出来ることから始めたくて、今この瞬間に足掻いている。
過去や未来の私はどうなのだろう。知る由もないけれど、知らない方が可能性が広がって面白いようにも思える。